母の言葉は、いつしか私を縛るものになっていました。期待とすれ違いを重ね、あの日、手紙とともに母への想いを手放した私。これは、母との関係に悩み続けた娘が、心の鎖を断ち切るまでの記録です。
口癖で娘を縛る母親

物心ついた頃から、私の実家は会話のない冷え切った家庭でした。
「あなたがもう少し大きくなったら離婚するから」と、母は私に言い聞かせるように、繰り返しその言葉を言ってきました。その言葉は呪いとなり、「私の存在が母を不幸にしている」という罪悪感を幼い心に深く刻みつけました。
息苦しい思春期を経て大学在学中にようやく自立しましたが、実家を離れて20年近く経った今も、両親は離婚していません。
「あなたにお父さんの介護を頼むのは悪いから離婚できないわ」とそらぞらしく笑う母。その姿に、ふと違和感を覚えるようになったのです。
「頼っていいよ」の言葉が、こんなにも重いなんて

結婚後、夫の転職で遠方へ引っ越し、間もなく長男を出産。数年後に2人目を妊娠しましたが、初期から体調が不安定で、5カ月の頃には大出血を起こし緊急入院しました。当時4歳だった長男のこともあり、数日で退院したものの、家事はままならず、夫の支えがあっても症状は悪化するばかりでした。
そんな私を気遣い、母は「頼りなさい」と声をかけ、物資を送ってくれました。出血のトラウマと、思うように動かない身体に次第に追い詰められ、ある日、涙ながらに母へ助けを求めました。沈黙の後、ため息をつきながら、母は渋々了承しました。
滞在中の母は家事全般をこなし、息子にも優しく、通院にも付き添ってくれました。けれどその裏では、ことあるごとに嫌味を口にし、電話でもわざと私に聞こえるように
「寝てるだけでいいわよね~」と愚痴をこぼすのでした。
不安定な体調と母からの愚痴にも耐え、無事に出産することができました。退院後に感謝の気持ちと十分なお礼を渡すと、母は満足そうに帰っていきました。しかし、その後も「あの時は本当に大変だった」と繰り返し口にする母。気づけば、母を頼ったことは後悔に変わっていました。
あの日の「わかった」に期待しすぎた私
それからは数年経つと
「もう手伝うのは嫌だから、3人目は絶対に産まないで。あなたに何かあっても、私は世話できないから」と、刺々しい言葉が…。「ありがとう」より「ごめんね」を口にすることが増え、妊娠中に浴びた母の愚痴や嫌味が、胸をえぐるように蘇りました。
幼い頃からずっと母のために尽くしてきたつもりでも、感謝された記憶はありません。それなのに、母は当然のように私に感謝を求め続けるのです。そんな母に静かに嫌悪感を抱き始め、徐々に距離を置くようになりました。数カ月後、「最近連絡が取れなくて心配だから」と母が突然わが家を訪ねてきました。
戸惑いつつも迎え入れ、これまでの気持ちを涙ながらに、ぽつりぽつりと伝えました。母は黙って聞き終えると、
「わかった…」とひと言残し、そのまま帰っていきました。その瞬間、言いようのない解放感が広がり、胸の奥がすっと軽くなるのを感じました。「わかってもらえた」と信じて疑いませんでした。
縁を切る決断を下した私、でも心の中での葛藤は続く…

数カ月後、母から分厚い手紙が届きました。開いた瞬間、心が凍りつくのを感じました。「あなたの話を聞いてショックで頭が真っ白になりました。あんなことを言われるとは夢にも思いませんでした」手紙はそう始まり、ページをめくってもめくっても母の気持ちばかりで、私の気持ちには一文字も触れられていませんでした。
長年抱いてきた母への期待と、母のために尽くしてきた自分を、手紙とともにゴミ箱へ捨てました。それから数年、母とは一切連絡を取っていません。この決断が正しかったのか、今も答えは出ません。わが子を愛おしく思う気持ちは、かつての母も同じだったはず。
子育てに奮闘する今だからこそ、あの時の母の苦労も理解できる気がします。それでも、降り積もった母の言葉と、あの手紙が、母との溝を決定的にしました。母にとって私は、結局それほど大切な存在ではなかったのでしょうか…。
(ファンファン福岡公式ライター/さち)


