明治生まれの祖母のちょっと怖くて不思議な思い出をまとめた連載「祖母が語った不思議な話」正続編終了時に、多くの方から続編を望まれる声をいただきました。御期待に応えた第3シリーズ、今回は「岩見と蜘蛛」のお話です。


「……無。己という壁は消え、自然の理(ことわり)とひとつになる」
「無念無想」の境地に至る修行 のため、岩見は人里離れた深山の雪の積もる岩の上で座禅を組んでいた。
かつて「サトリ」に思考を読まれ、後手に回った苦い記憶…それを雪辱するためには、剣技を磨く以上に己の心を律する必要があった。
「斬ろう」と思えば、その殺気が伝わる。
「防ごう」と思えば、その怯えが伝わる。
岩見は、数多(あまた)の雑念を一つずつ削ぎ落とし、ついには心拍すらも自然に同化させる「無念無想」の境地へ辿り着かんとしていた。
その姿はまるで雪に埋もれた一体の石仏。
不思議と寒さも感じず、自分の存在がどんどん広がっていくようだ…。

「ねぇ、岩見様! いつまでそうやってるんですか? 寒いからもう帰りましょうよ! 団子食べます?」
「…せっかく良いところまで来ていたのに。少し静かにしていてはくれぬか?」
「何言ってんですか。これくらいのことでグラついていたら『無念無想』なんて無理無理」
「……」
団子片手に絲は岩見の渋い顔を見てコロコロと笑う。

家に戻った岩見に一通の文が届いていた。
【岩見殿。 亡き妻の仇、今日まで片時も忘れたことはござらぬ。此度はその報い、潔く受けていただこう。来る二月の晦日(みそか)の日暮れ刻、貴殿の命、申し受ける。 私の『観(かん)』の力は、妻の数十倍も勝るもの。貴殿の小細工など、とうに見透かしておるわ。もはや逃げ場はなしと心得よ。傍らにおる女郎蜘蛛も、まとめて冥土へ送って進ぜよう】
二人の顔色が変わる。
「あのサトリの主人か…ついに来たな。晦日まであと二十日…いよいよ修行を進めねば」
「こいつぁ一大事! ちょっと出かけてきます」
「うむ。拙者は御家老に報告せねば」

そして、あっという間に二十日が過ぎた。
風に吹かれざわめく竹林で修行を終えた岩見が戻って来たのは陽も傾き始めた頃だった。
絲の姿は見えず、ただ書き置きがあった。
【岩見様 あれこれ考えましたが、一番の策は「君子危きに近寄らず」…これまで長いことお世話になりました。岩見様のことは決して忘れません。それではご機嫌よろしゅう。絲】

「ほう蜘蛛は逃げたか」
声のした方を向くとサトリが庭に立っていた。
沈みゆく太陽を背に不気味に笑っている。
「では岩見殿、弑(しい)し奉る!」
サトリが抜きつけた刀を間一髪かわした岩見の背が庭の蜘蛛の糸に触れた。
その瞬間何十匹もの蜘蛛が眠りから覚めた。

「こいつがサトリか、マズそうだね」
「あ〜あ、もう少し寝かせておくれよ」
「なんとも憎たらしいツラじゃないか」
「どこかに酒はないかねぇ」
「肉は硬そうだが食べではありそう」
「もうすぐ庭の梅も咲きそうだね」
「生きたままいただくのもいいね」
「目玉は私のだよ」
「千年以上生きとる儂からすれば小僧もいいとこじゃな」
「岩見様、姉様が惚れるだけあってイイ男だねぇ」

蜘蛛たちの意識が一気に開放された。
岩見の思考を読み取ろうと感覚を研ぎすませていたサトリの脳内を、膨大な思考と感情が埋め尽くした。
「ぐ、ぐああああ! 何だ、これは!? 思考が、散乱する……!」
あまりに強い思念の爆発に近辺の犬たちは一斉に吠え、鳥は地に落ち、赤子は泣き、住人たちは目眩(めまい)に襲われた。

ただ一人、岩見だけは違った。
その表情は水面のように静かだ。
サトリは驚愕した。
あれほど強烈な蜘蛛たちの思考の真っ只中で、岩見の頭の中だけが、「底なしの穴」のように真っ白だったからだ。
「読めぬ……“次”が、何も映らん!!」
岩見がすっと動いた。
サトリの首が落ちた。
風が吹けば葉が落ちるように、「無念無双」の境地に至った岩見が自然の理として刀を振るったのだ。

岩見は刀を収めた。
「お見事でした。さすが私が見込んだだけはあります」
絲が軽やかな足取りで近づき、岩見の顔を覗き込んだ。
「ありがとう、絲。お主の親族たちの思考の渦の中でこそ無念無双の境地に辿り着くことができた」
「今回の敵はなかなかのヤツだったので、ちょいとみんなに来てもらったんですよ。あ、それからあの文は…」
「『敵を騙すなら、まず味方から』だろう?」
「さすが岩見様!」
「皆にも礼を言わねば…」
岩見がそう言った瞬間、庭を数十人の女衆が埋め尽くした。
「なんの岩見様、久しぶりに一族が集まることができて楽しゅうございましたわ」一番年嵩の老婆がにこにこしながら言った。
「さあ、町に繰り出そうか。今夜は宴会だ! 岩見様のおごりだよ!」絲の言葉に歓声が上がる。
「えっ?」
驚く岩見を見た絲はくすくす笑い、そしてこう言った。
「岩見様……まだまだ、修行が足りませんね」





チョコ太郎より
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